メインコンテンツに移動
HCD(人間中心設計)とは?ISO 9241-210に基づく原則・プロセス・実務での進め方

HCD(人間中心設計)とは?ISO 9241-210に基づく原則・プロセス・実務での進め方

HCD(人間中心設計)は、単なる「ユーザーのために作る」という姿勢ではなく、ユーザーが置かれる利用状況(文脈)を起点に、設計と評価を往復しながら品質を高めていくための考え方です。ここでいう品質は、見た目の整い方だけではなく、ユーザーが目的を達成できる確実さ、迷いにくさ、誤解やエラーから復帰できる強さ、そして継続利用に必要な信頼感までを含みます。つまりHCDは、体験を偶然の出来栄えに任せず、再現性をもって改善していくための枠組みだと言えます。

ISOのISO 9241-210でも、HCDは特定の開発手法や成果物に縛られるものではなく、システム設計・開発の中で適用されるアプローチとして位置づけられています。重要なのは、決定が会議の説得力や好みに偏るのではなく、利用状況の理解と評価結果によって更新され続けることです。成果物はそのための道具であり、作ったこと自体が価値になるわけではありません。

本記事では、HCDの定義とビジネス効果を押さえたうえで、6原則を実務でどう解釈し、どう運用に落とすかを整理します。さらに、4つの基本活動(コンテキスト理解→要求→解決案→評価)をプロセスとして回す方法、周辺概念(UX・HCI・UCD・デザイン思考)との違い、導入の最小セット、そして現場で起こりやすい失敗と対策までを一続きでまとめます。読み終えたときに「何から始め、何を根拠に、どう反復するか」がチーム内で言語化できる状態を目指します。 

1. HCD(人間中心設計)とは 

HCDとは、インタラクティブシステムを「より使いやすく」するために、利用状況(文脈)に焦点を当て、人間工学やユーザビリティの知見・手法を設計開発に組み込みながら進めるアプローチです。単に画面を整えるのではなく、ユーザーがどんな目的で、どんな環境や制約の中でタスクを行うのかを前提にし、設計と評価を往復しながら品質を高めていきます。ISOのISO 9241-210では、HCDをこのような「システム設計・開発のアプローチ」として位置づけています。 

またISO 9241-210では、「human-centred design」という用語を採用する背景として、典型的な「ユーザー」だけに限定せず、複数のステークホルダーへの影響も含めて扱う意図があることが示されています。実務では「user-centred design」と近い意味で使われる場面も多いですが、HCDはより広い範囲を視野に入れ、利用者だけでなく運用者や組織の条件も踏まえたうえで、体験全体の成立を目指す考え方として理解すると整理しやすいです。 

 

2. HCDが重要視される理由 

HCDは「理想論」ではなく、成果に結びつきやすい点が大きな強みです。ISOのISO 9241-210でも、人間中心の方法は経済的・社会的な便益をもたらし得ると整理されています。たとえば、生産性や運用効率の向上、教育・サポートコストの削減、使いやすさやアクセシビリティ、UXの改善、利用時のストレス低減などが挙げられます。結果として、顧客満足や継続利用に影響し、ブランド価値や競争力に寄与する可能性も高まります。 

さらにHCDは、リリースして終わりではなく、設計→実装→運用→保守といったライフサイクル全体で、総コストやリスクを抑える考え方にもつながります。要求の不一致や現場での受け入れ不全が起きると、後工程ほど手戻りが重くなり、追加開発・問い合わせ対応・運用負荷などが膨らみやすいです。HCDを継続的に組み込むことで、こうしたズレを早い段階で小さく発見しやすくなり、結果としてプロジェクトの成功確率を上げ、手戻りを抑えることにも効果が出やすくなります。 

 

3. HCDの6原則 

ISO 9241-210におけるHCD(Human-Centred Design)は、特定の手法や成果物を定義するものではありません。むしろ、人間中心で設計・改善を進めるために、どのような判断軸を持つべきかを整理した設計思想に近い位置づけです。 

その中核となるのが、設計・開発・評価の全体を通して守るべき6つの原則です。これらはチェックリストとして形式的に満たすことが目的ではなく、チームの意思決定を現実に即したものへと導き、ズレや手戻りを減らすための運用ルールとして機能します。以下では、それぞれの原則を実務でどう解釈し、どう使うかという観点から整理します。 

 

3.1 ユーザー・タスク・環境を明示的に理解した上で設計します 

この原則は「ユーザー理解」をスローガンで終わらせず、誰が・何を・どこで・なぜ・どの制約下で使うのかを、設計の前提として明文化する考え方です。画面単体の良し悪しよりも、利用状況(端末、時間、場所、周囲の騒音、同時作業、権限、リテラシー差など)が行動を左右するため、コンテキストを曖昧にすると設計がズレやすくなります。 

実務では「想定」を減らし、観察・インタビュー・ログ・問い合わせなどから、タスクの流れと詰まりを把握していきます。特にB2Bや業務系では、手順の前後関係や例外処理がUXを決めるため、タスク分解が効きます。 

  • コンテキストを1文で言える状態(例:誰が・何を達成したいか)になっていますか 
  • 成功・失敗が分かれる条件(例:例外、権限、入力制約)をリスト化できていますか 

 

3.2 設計・開発を通してユーザーを関与させます 

この原則が示す「ユーザー関与」とは、プロダクトがほぼ完成した段階で感想や要望を集めることを指しているわけではありません。設計・実装・改善という各フェーズにおいて、ユーザーの視点や利用実態が継続的に意思決定の場へ入り込み、設計上のズレや前提の誤りを早い段階で、小さな修正として回収できる状態を作ることに本質があります。後戻りのコストが高くなる前に学習を組み込むための仕組みだと言えます。

また、ユーザー関与は常に大規模で正式なリサーチである必要はありません。少人数の定期的なヒアリングや、簡易な試作品を用いたレビュー、サポート窓口への同席、営業やCSが現場で得た知見を「ユーザーの代弁」として設計に持ち込む仕組み化など、組織の規模やフェーズに応じて関与の強度は柔軟に選択できます。重要なのは、ユーザーと接点を持ったという事実そのものではなく、その学びによって判断基準や優先順位が実際に更新されたかどうかです。関与が意思決定に反映されて初めて、ユーザー関与は機能していると言えます。

 

3.3 ユーザー中心の評価で、設計を駆動・洗練します 

HCDでは、設計は“正解を当てにいく”作業というより、評価で仮説を更新していく作業です。この原則は、見た目の完成度や社内合意だけで判断せず、ユーザー中心の評価(観察・測定)を意思決定の根拠に置くことを求めます。 

評価は定量だけでも、定性だけでも偏ります。現場では「完了率・時間・エラー」などの指標と、「なぜ詰まったか」の観察をセットにすると、改善の精度が上がります。 

  • タスク完了の定義(成功条件)が明確で、測れる形になっていますか 
  • 問題点が“解釈”ではなく“観察事実”として記録されていますか 

 

3.4 プロセスは反復的(イテレーティブ)に進めます 

この原則は、最初から完璧で抜けのない仕様を作ることを前提とせず、実際の利用を通じて得られる学びを積み上げながら、段階的に品質を高めていく考え方です。ユーザーの実際の利用状況や認知負荷、想定外の操作や例外ケースは、どれだけ入念に検討しても机上の設計だけでは完全に把握しきれません。そのため、「試す → 学ぶ → 直す」という反復を前提に設計を進めた方が、大きな手戻りや致命的な失敗を避けやすく、結果として失敗コストを抑えられます。

反復を効果的に回すためのポイントは、検証の粒度を意識的に小さく保つことです。画面全体や機能一式を作り込んでからテストするのではなく、重要なタスクの一部、たとえば入力の1ステップ、確認画面の理解しやすさ、エラー発生時の復帰動線といった限定的な範囲だけでも検証します。こうした小さな単位での評価を繰り返すことで、ユーザーがつまずく根本原因を早い段階で特定し、設計に反映できます。アジャイル開発の環境であれば、スプリントの中に評価の時間を組み込むだけでも、学びが次の設計判断に確実につながり、改善のスピードと精度が高まります。

 

3.5 体験全体(ユーザー体験の全体像)を扱います 

HCDは、画面上の操作性や見た目の分かりやすさだけを対象にする考え方ではありません。実際には、利用前の期待形成から、導入・学習・初回設定、日常利用、トラブル発生時の復帰、問い合わせ対応、さらには解約や利用終了に至るまでの一連の体験全体を扱います。こうした前後を含めて初めて、ユーザーにとって「使える」「安心して使い続けられる」と感じられるかどうかが決まるケースは少なくありません。画面単位での最適化にとどまると、全体の流れの中で説明不足や役割の重複、期待と実態のズレが生じやすくなります。

実務においては、個々のUIだけでなく、タスクフローやユーザージャーニーを整理し、オンボーディングや通知、ヘルプへの導線といった前後のつながりまでを設計対象に含めることが重要です。「一画面として正しいか」よりも、「ユーザーが迷わず目的を完了できる連続した体験になっているか」を優先して考えることで、途中離脱や不要な問い合わせは着実に減っていきます。HCDは、部分最適ではなく体験全体の整合性を保つための実践的な視点です。

 

3.6 多様な専門性(学際的スキル)をチームに含めます 

この原則は、UXの品質がデザイナーだけで完結しない現実を前提にしています。設計判断には、開発、QA、データ、CS、営業、法務、運用など多様な制約が絡み、どれか一つが欠けると「机上では良いが現場で崩れる」状態になりがちです。 

多様性は人数の多さではなく、意思決定に必要な視点が揃っているかが重要です。特に「例外処理」「運用負荷”」「問い合わせ導線」は現場知が強いので、早期から巻き込むほど手戻りが減ります。 

  • 仕様の決定に、運用・サポート視点(問い合わせ・復旧)が入っていますか 
  • 制約(法務・セキュリティ・技術負債)を前提に、実装可能な形へ落とせていますか 

 

3.7 6原則を運用に落とす早見表

6原則は「チェック項目」に落とすとチームで回しやすくなります。下の表は、各原則を日々のレビューで確認できる形にした例です。 

原則 

レビューで見る観点(例) 

理解 ユーザー・タスク・環境が1枚で共有され、例外条件が整理されているか 
関与 いつ誰に何を確認し、意思決定がどう更新されたかが残っているか 
評価 成功条件と指標があり、観察事実ベースで改善案が出ているか 
反復 小さく作って検証するループがスケジュールに組み込まれているか 
全体 前後工程(導入・復帰・問い合わせ)まで含めて破綻がないか 
多様性 開発・運用・CS等の制約が早期に反映され、合意できているか 

 

HCDの6原則は、設計プロセスを「一度きり」で完了させるための指針ではありません。ユーザー理解を継続的に深め、評価を通じて仮説を更新し、その学びを次の設計判断へ反映していく──この循環を回し続けることで、ユーザー体験の質を段階的に高めていくための枠組みです。 

設計の品質は、「どれだけ丁寧に作り込まれたか」ではなく、実際の利用状況に照らして、どの程度見直しと修正が重ねられてきたかによって左右されます。6原則をチームの共通言語として運用に組み込み、理解と評価の密度を高めていくことが、HCDを抽象的な理念にとどめず、再現性のある設計アプローチとして機能させるための重要な要件となります。 

 

4. HCDのプロセス 

HCDは、ウォーターフォールやアジャイルといった特定の開発手法に依存するものではなく、どの進め方にも「人間中心の活動」を差し込めるフレームとして扱えます。ISO 9241-210が重要視しているのは、HCDを“固定の工程”として覚えるのではなく、開発の意思決定を支える活動(アクティビティ)の集合として理解することです。つまり、「手順を守っているか」よりも「ユーザー理解と評価が、設計を実際に更新しているか」が肝になります。 

そのため実務では、HCDを“イベント”として年に数回やるのではなく、日々の開発に組み込み、成果物と判断基準をセットで運用するのが効果的です。とくにスプリント型の開発では「今週(今スプリント)は、何を作り、何で良し悪しを判断するのか」を明確に揃えるだけで、HCDがプロセスとして回りやすくなります。ここが曖昧だと、アウトプット(資料やプロトタイプ)は増えても、意思決定が変わらず、HCDが形骸化しやすいです。 

 

4.1 基本の4活動(ISOの代表形) 

ISO 9241-210では、人間中心設計を具体的に進めるための活動が整理されていますが、実際のプロジェクトでは、それらを4つの基本活動として捉えると共有しやすく、運用にも落とし込みやすくなります。重要なのは、これらの活動が順番に一度だけ実施される工程ではなく、評価結果を起点として行き来しながら反復される構造を前提としている点です。 

設計の成果は、すべての活動を均等に行ったかどうかではなく、どの活動に重点を置いたかによって大きく左右されます。不確実性の高い領域や新規性の高い機能では評価と反復の比重を高め、既に理解が蓄積されている領域では要求整理を簡潔にするなど、リスクに応じた配分が求められます。 

 

4.1.1 利用状況(コンテキスト)を理解・定義する 

最初に行うべきは、「誰が・何を・どこで・どんな制約の中で」使うのかを明確にすることです。ここが曖昧なままだと、画面は整っていても、実際の利用環境では使われない・誤解される・運用に乗らない、といったズレが起こります。HCDのコンテキスト理解は、単に属性(年齢・職種)を並べるのではなく、タスクの流れ、頻度、失敗時の影響、利用端末、回線状況、時間制約、周囲の環境(騒音・移動・片手操作)など、行動を規定する条件を具体化することに意味があります。 

実務では「現場の制約」を最初に拾えるかどうかで、後半の手戻り量が変わります。たとえば業務システムなら、入力は“机の前でゆっくり”ではなく、短時間で断続的に行われるかもしれません。ECなら、比較検討は複数タブで進み、途中で中断される可能性もあります。こうした前提が明確になって初めて、情報設計やUIの判断基準が揃い、改善の方向性がブレにくくなります。 

 

4.1.2 ユーザー要求・組織要求を明確化する 

次に、コンテキスト理解を根拠として「ユーザーが達成したいこと」と「組織として守るべきこと(制約・KPI・運用)」を要求として整理します。ここでありがちな失敗は、要求が“機能の一覧”だけになり、「何が成功で、何が失敗か」が測れない状態になることです。HCDでは要求を、ユーザーの行動や成功条件(例:迷わず完了できる、誤入力が起きにくい、復帰できる)として表現し、評価とつながる形にします。 

また、組織要求は“ユーザーの敵”ではなく、現実にプロダクトを成立させる条件です。法務・セキュリティ・サポート・運用・営業などの視点が要求に含まれていないと、リリース後に「説明できない」「運用できない」「問い合わせが爆増する」といった形でUXが崩れます。要求の段階で両者を同じテーブルに載せ、優先順位とトレードオフを明文化しておくと、後工程の判断が速くなります。 

 

4.1.3 要求を満たす解決案(設計・プロトタイプ)を作る 

要求が整理できたら、それを満たす解決案を設計し、プロトタイプとして“検証できる形”にします。重要なのは、解決案を完璧に作り込むことではなく、判断に必要な粒度まで早く形にすることです。低忠実度でも、ユーザーがタスクを進められる程度の流れが見えるだけで、議論は「好み」から「検証」に移りやすくなります。 

解決案の作成では、情報設計(何をどの順で見せるか)、インタラクション設計(どう操作できるか)、文言(どう理解させるか)が密接に絡みます。ここでの設計は、次の評価活動の“テスト設計”とセットで考えると効率的です。つまり、作る前に「何を確認したいのか(仮説)」を明確にし、その仮説が検証できる形でプロトタイプを用意します。これにより、評価結果が意思決定に直結し、改善が前に進みます。 

 

4.1.4 要求に照らして評価し、反復する 

最後に、要求に照らして評価し、結果をもとに反復します。評価は完成品の検査ではなく、設計を更新するための材料です。たとえば、完了率・所要時間・エラー率・迷いの箇所・理解のズレといった観点で、要求が満たせているかを確認します。ここで見つかった課題は、重大度(影響の大きさ)と頻度(起こりやすさ)で優先順位を付け、次の版で直し、再評価します。 

反復の価値は、単に「回数を増やす」ことではありません。理解が深まり、意思決定の根拠が更新され、要求や設計が現実に合わせて磨かれていくことにあります。特に不確実性が高い領域では、早い段階で小さく失敗し、学びを回収して軌道修正する方が、結果としてコストもリスクも下がります。HCDがプロセスとして機能するかどうかは、この評価→改善→再評価のループが“継続的に回っているか”で決まります。 

 

4.2 成果物の例

ISO 9241-210では、各活動に対応するアウトプット例が整理されています。実務ではこの表を叩き台にして、「今スプリントで作る成果物」と「それで何を判断するのか」を先に揃えると、HCDが“作業”ではなく“意思決定の仕組み”として回りやすくなります。成果物を増やすこと自体が目的にならないように、必ず評価(どう測るか)とセットで運用するのがコツです。 

活動 

代表的な成果物(例) 

実務での狙い(例) 

コンテキスト理解 

ユーザーグループ、As-isシナリオ、ペルソナ 

利用状況・制約を前提として揃える 

要求の明確化 

ユーザーニーズ、要求仕様、設計ガイダンス 

成功条件と優先順位を明文化する 

解決案の作成 

シナリオ、低/高忠実度プロトタイプ、UI仕様 

仮説を検証できる形にする 

評価 

ユーザビリティテストレポート、調査報告、アンケート結果 

要求に照らして改善点を確定する 

 

4.3 「スプリントで回す」ための運用イメージ 

アジャイルにHCDを組み込むときは、「4活動を毎回フルセットで重く回す」必要はありません。現実的には、スプリントごとに対象を絞り、成果物と評価の最小セットを決めて回すのが成功しやすいです。たとえば、スプリント開始時に“対象タスクと成功指標”を合意し、前半で検証可能なプロトタイプを用意し、後半で小さく評価して学びを回収する、という形にすると、HCDが開発リズムに自然に乗ります。 

この運用で重要なのは、毎回「何を学んだか」「何を捨てるか」「次に何を試すか」を短くても良いので残すことです。記録がないと、反復が“同じ議論の繰り返し”になり、学習が進みません。逆に、学びが蓄積されると、コンテキスト理解と要求の精度が上がり、テストの打率が上がり、設計判断が速くなります。結果として、HCDはスプリントを遅くするものではなく、むしろ手戻りと不確実性を減らす仕組みとして機能します。 

 

人間中心設計の活動は、理解・要求整理・設計・評価といった要素が相互に結びつきながら進む構造を持っています。いずれかを単独で実施しても十分な効果は得られず、利用状況の把握が要求の質を左右し、要求の明確さが設計と評価の有効性を決めます。これらが循環的に更新されていくことで、設計判断は徐々に現実に近づき、体験の精度が高まっていきます。 

この考え方が定着すると、設計は成果物を作る行為から、意思決定を更新し続ける営みへと変わります。すべてを等しく行うことよりも、不確実性やリスクの高い部分に学習と検証を集中させ、その結果を次の判断に確実につなげることが重要になります。評価と改善のループが継続的に機能している状態こそが、人間中心設計が実践として根付いているかどうかを判断する基準になります。 

 

5. HCDとUX・HCI・UCD・デザイン思考の違い 

用語が似通い、混同が起きやすい領域では、「その言葉が何を指すのか(概念・学問・プロセス・フレームワーク)」と、「現場でどの場面に使われるのか(いつ・何の目的で用いるのか)」を切り分けて整理することが、理解を深めるうえで有効です。HCD(Human-Centred Design)は、ISO 9241-210において、人間中心の考え方を既存のシステム開発やプロダクト設計に組み込める形で定義されています。 

HCDの特徴は、特定の設計手法や開発プロセスに依存せず、理解・設計・評価といった活動全体を支える枠組みとして扱える点にあります。その結果、ウォーターフォールやアジャイルなど開発モデルを問わず、意思決定の質を高めるための共通基盤として活用しやすい設計アプローチとして位置づけられます。 

以下では「HCD」と他の用語を1つずつ比較し、各比較ごとに専用の表で整理します。 

 

5.1 HCDとUXの違い 

UXは「ユーザー体験そのもの」を指し、利用前の期待から利用中の感情・理解・達成感、利用後に残る納得感や満足まで含む“結果(アウトカム)”として語られることが多いです。一方HCDは、そのUXや使いやすさを“再現性をもって高めるための進め方”で、ユーザー理解・設計・評価・反復を開発の中に組み込むための総合アプローチです。つまり、UXは「良い・悪い」を評価される対象で、HCDは「良いUXに近づくために、どう進めるか」の方法論だと捉えるとズレにくいです。 

実務でありがちな失敗は、UXを“センスの問題”として扱い、HCDのような活動(調査・検証・反復)を省略してしまうことです。UXの改善を継続的に進めたいなら、UXをゴールに置きつつ、HCDを運用の型として採用し、意思決定の根拠(観察・指標・テスト結果)が積み上がる状態を作るのが強いです。 

観点 

HCD(人間中心設計) 

UX(ユーザー体験) 

位置づけ 

進め方・プロセス(活動の枠組み) 

体験の概念・成果(アウトカム) 

目的 

使いやすく有用にし、効果・効率・満足などを高める 

体験全体の質(納得感・安心感・満足度など)を高める 

主な問い 

「誰がどの文脈で何を達成する?それをどう検証する?」 

「この体験は気持ちよく、信頼でき、また使いたいと思える?」 

典型アウトプット 

コンテキスト整理、要求定義、プロトタイプ、評価結果(テスト) 

体験方針、体験品質の基準、体験KPIの設計 

使いどころ 

開発運用・品質保証・意思決定の型づくり 

価値設計・体験の一貫性設計・KPI設計 

 

5.2 HCDとHCIの違い 

HCI(Human-Computer Interaction)は、人とシステムの相互作用を扱う学際領域で、認知・知覚・行動、インタラクション設計、評価方法などの知見が蓄積されています。HCDはその知見を含む人間工学・ユーザビリティの方法を、実際のシステム開発に適用するための“実装可能な枠組み”として整理されたもの、という関係で理解すると自然です。言い換えると、HCIは「理論・知識の土台」、HCDは「現場で回すための運用フレーム」に寄ります。 

現場では、HCIの知見(例:知覚・記憶、認知負荷、エラーの起こり方)を根拠に設計仮説を立て、HCDの活動(コンテキスト理解→要求→解決→評価)に落として検証する、という形が最も強いです。HCIだけだと「良い理屈」止まりになり、HCDだけだと「型はあるが、判断根拠が薄い」状態になりやすいので、両方を役割分担させるのが実務的です。 

観点 

HCD(人間中心設計) 

HCI(ヒューマン・コンピュータ・インタラクション) 

位置づけ 

標準にもとづく開発のアプローチ・活動の枠組み 

人とシステムの相互作用を扱う学際領域(研究・実務の土台) 

強み 

開発に組み込みやすい・意思決定を評価で回せる 

人間特性・設計原則・評価法の理論的根拠を提供 

主な問い 

「どういう活動を、どの順で回し、何で判断する?」 

「なぜ人は誤解する?どうすれば学習しやすい?」 

典型アウトプット 

要求定義、プロトタイプ、テストレポート、改善ループ 

原理、モデル、評価手法、実験・研究知見 

使いどころ 

プロジェクト運用・品質保証・組織プロセス 

設計の根拠づくり・評価設計・難問の解釈 

 

5.3 HCDとUCDの違い 

UCD(User-Centered Design)は、各フェーズでユーザーのニーズを中心に置き、ユーザーを関与させながら反復的に設計する考え方として広く説明されます。実務ではUCDとHCDをほぼ同義で使う場面も多いのですが、ISO 9241-210を引用する形でNISTが説明しているように、HCDは「有用で使いやすい」だけでなく、効果・効率・満足に加えてアクセシビリティや持続可能性、健康・安全への悪影響の抑制といった観点まで含めて整理されます。 

そのため、プロダクトの影響範囲が広い(公共性、規制、業務安全、長期運用、アクセシビリティ要件が強い)ほど、UCDという言い方よりHCDの方が「誰のための設計か」を広く捉えやすいです。一方、チーム内で「ユーザーを中心に反復する」という実務の要点を共有するだけならUCDでも十分に通じます。要は、用語選びよりも“ユーザー理解と評価が意思決定を更新しているか”が本質になります。 

観点 

HCD(人間中心設計) 

UCD(ユーザー中心設計) 

スコープ 

ユーザーに加え、広い影響(アクセシビリティ、健康・安全等)も含めやすい 

主にユーザーとそのニーズを中心に据える 

位置づけ 

標準に基づくアプローチとして説明されやすい 

実務・教育で広く使われる反復的設計アプローチ 

主な問い 

「人にとって有用で、悪影響を抑えられているか?」 

「ユーザーは目的を達成できるか?使いやすいか?」 

使いどころ 

公共性・規制・安全・アクセシビリティ要件が強い領域 

一般的なプロダクト開発で“ユーザー中心”を強調したい時 

運用の実態 

現場では同義的に扱われることも多い 

現場ではHCDと同義的に扱われることも多い 

 

5.4 HCDとデザイン思考の違い 

デザイン思考は、問題発見→発想→検証を促す枠組みとして語られ、新規テーマや不確実性の高い課題で「探索」と「合意形成」を前に進めるのに強いです。その代表モデルとして、Design Councilのダブルダイヤモンド(Discover/Define/Develop/Deliver)がよく参照されます。 

HCDは、こうした探索フレームに対して「人間中心の原則」と「評価で駆動する仕組み」を強く注入するイメージで捉えるとわかりやすいです。つまり、デザイン思考が“課題を見つけ、方向性を作る”力に優れるのに対し、HCDは“要求に照らして、使える品質まで反復で磨き込む”力が強い、という役割分担です。探索(発散)に偏りすぎて検証が薄くなるのを防ぎたいとき、HCDの評価と反復が特に効きます。 

観点 

HCD(人間中心設計) 

デザイン思考(例:ダブルダイヤモンド) 

目的 

使いやすく有用にし、評価で品質を磨く 

課題発見→定義→解決案→検証の探索を促進 

強い場面 

既存/新規問わず“使える品質”の保証、運用への組み込み 

新規テーマ、曖昧な課題、合意形成、方向性づくり 

中心となる問い 

「要求を満たしたか?どこが詰まるか?直すと改善するか?」 

「本当の課題は何か?どの方向が有望か?」 

代表的な進め方 

コンテキスト→要求→設計→評価→反復 

Discover→Define→Develop→Deliver 

組み合わせ方 

デザイン思考で探索→HCDで評価駆動の反復に落とす 

HCDを入れて“検証不足”を防ぐ 

 

6. HCDを現場で回すための導入手順 

HCD(人間中心設計)を導入しようとすると、「何から始めればいいのか分からない」「成果物作りで止まってしまう」「現場が忙しくて回らない」といった課題に直面しやすくなります。最初から全社標準化や網羅的なプロセスを目指すと、HCDは実践から遠い「重たい取り組み」になり、継続が難しくなります。 

そこで重要になるのが、対象を絞り、短い反復で検証と改善を回すことです。特に現場では、重要度の高いタスクに集中し、最小限の成果物と評価で意思決定を更新していく方が、HCDの効果が出やすくなります。本節では、HCDを形だけで終わらせず、日々の開発や改善の中で機能させるための、最小構成による導入手順を整理します。 

 

6.1 ミニマム導入

HCDを現場で機能させるためには、最初から理想的なプロセスや完全なドキュメントを揃える必要はありません。むしろ、対象を絞り、判断に必要な情報だけを最短距離で集め、改善につなげられる形を作ることが重要です。本節では、忙しい現場でも無理なく回せるように、成果物・調査・評価を最小限に抑えつつ、意思決定を更新できる導入ステップを整理します。以下の手順は、HCDを「やった感」で終わらせず、実際の改善に結びつけることを目的としています。

6.1.1 重要タスクと成功指標(完了率・時間・エラー率など)を決めます 

最初に「どのタスクの体験を良くするのか」を絞り込みます。ここが曖昧だと、改善が広がりすぎて評価もできず、“それっぽい施策”が積み上がるだけになりがちです。おすすめは、売上や問い合わせ削減などに直結しやすいタスクを1〜3個だけ選び、対象ユーザーも合わせて定義することです(例:新規ユーザーの登録完了、既存ユーザーの購入完了、問い合わせフォーム送信など)。 

次に、そのタスクが「成功した」と言える基準を決めます。完了率(成功/失敗)、タスク時間、エラー率、離脱率など、まずは測りやすい指標で十分です。指標が決まると、テストの観察点も改善の優先順位も揃いやすくなり、議論が主観に寄りにくくなります。 

 

6.1.2 コンテキストを取ります(インタビュー・観察・ログ) 

HCDの効果は、ユーザーが置かれている状況(コンテキスト)をどれだけ掴めるかで決まります。インタビューだけでなく、可能なら観察やログも組み合わせると、ユーザーが言葉にしない詰まり(迷い・ためらい・誤解)が見えやすくなります。ここで大事なのは、情報を大量に集めることではなく、対象タスクに関係する「制約」と「行動の理由」を掴むことです。 

たとえば登録で離脱が多いなら、入力環境(スマホ/PC、移動中、片手操作)、本人確認の理解、エラー表示の気づきやすさ、入力ルールの分かりやすさなどに焦点を当てます。短時間でも、タスクに直結する要素だけ拾えば十分に改善の仮説が立ちます。 

 

6.1.3 要求を“行動”で書きます(〜できる/迷わない 等) 

要求(要件)を「機能のリスト」にしてしまうと、HCDが急に弱くなります。ここでは、ユーザーが実際に「何ができるべきか」「どこで迷わないべきか」を行動で書くのがポイントです。たとえば「ログイン機能を作る」ではなく、「パスワードを忘れても3分以内に復帰できる」「入力ルールがその場で理解でき、エラー原因が自分で修正できる」といった形にします。 

この“行動要求”があると、設計案が増えても判断軸がブレにくくなります。さらに、後の評価(テスト)で「要求を満たしたか」を判定しやすくなるため、改善が積み上がりやすくなります。 

 

6.1.4 プロトタイプで早く見せます(低忠実度でOK) 

HCDを回すうえで、プロトタイプは「デザインを固めるため」よりも「検証可能にするため」に作ります。最初は低忠実度で十分です。紙でもワイヤーでも、クリック可能な簡易プロトタイプでも構いません。重要なのは、ユーザーが実際にタスクを進められる形にして、迷い・誤操作・理解不足を表面化させることです。 

この段階で“完成度”を上げすぎると、作り込みコストが増え、修正が心理的にもスケジュール的にも難しくなります。最初は「仮説を最短で壊す」くらいの気持ちで、軽い試作→テスト→修正に寄せるほど、結果として早く良い形に近づきます。 

 

6.1.5 評価して改善します(テスト→修正→再テスト) 

最後に、評価で設計を更新します。ここでの評価は、重い調査である必要はありません。対象タスクを実行してもらい、完了できたか、どこで止まったか、何を誤解したかを観察できれば十分です。見つかった課題は「重大度(影響の大きさ)」と「頻度(どれくらい起こるか)」で優先順位を付け、次の版で直して再テストします。 

この“再テスト”が入るだけで、HCDは一気に強くなります。1回のテストで見つけただけでは、改善が効いたか分からず、施策が積み上がりません。小さくても反復することで、チーム内に「良い体験の作り方」が資産として残ります。 

ステップ 

最低限つくるもの 

判断の軸(例) 

Step1 

重要タスク1〜3個 + 成功指標 

完了率・時間・エラー率・離脱率 

Step2 

コンテキストの要点メモ 

制約と詰まりが説明できるか 

Step3 

行動要求(〜できる/迷わない) 

テストで判定できる形か 

Step4 

低忠実度プロトタイプ 

タスクを通せるか 

Step5 

課題リスト + 優先順位 

直したら指標が改善したか 

 

6.2 HCDチェックリスト 

ミニマム導入でHCDの手応えが得られても、単発の改善で止まってしまうと効果は長続きしません。HCDを現場に根付かせるためには、特別な活動として切り出すのではなく、既存の開発・改善フローの中に自然に組み込むことが重要です。本節では、限られた時間とリソースの中でもHCDを継続的に回し、判断の質を保ち続けるための運用の考え方とポイントを整理します。

 

6.2.1 ユーザー・タスク・環境の理解が、根拠に支えられていますか 

ユーザー像や利用状況が曖昧なまま進むと、設計は「一般論として正しそう」でも、実際の利用シーンでは噛み合わないことが起きます。たとえば、同じ「登録」でも、移動中のスマホ操作と、落ち着いたPC操作では、許容できる入力量もエラーの受け止め方も違います。HCDでは、ユーザーが何を達成しようとしているか(タスク)と、それが行われる条件(環境・制約)を、できるだけ具体の言葉で固定し、設計判断の前提に置きます。 

根拠は必ずしも大規模調査である必要はありません。短時間のインタビューでも、実際の操作観察でも、ログの偏りでも、設計の仮説を支える「手触りのある材料」があるかが重要です。現場で効くのは、ユーザーの失敗やためらいが発生する瞬間に注目することです。入力ルールが理解されていない、注意が向かない場所に重要情報がある、エラーから復帰できないなど、詰まりの起点を特定できると、改善の優先順位が一気に明確になります。 

 

6.2.2 設計の意思決定が、評価結果によって更新されていますか 

議論が盛り上がっても、ユーザーが実際に成功できないなら、それは良い設計とは言えません。HCDの実務で大切なのは、設計の良し悪しを「説得力」や「慣習」で決めるのではなく、ユーザーの行動に基づいて更新していくことです。完了できたか、どこで迷ったか、何を誤解したか、エラーがどの程度起きたかといった観察が、設計判断を前へ進めます。 

そのためには、比較できる形が必要です。完了率、タスク時間、エラー率、離脱率など、最低限どれか1つでも「前より良い」を判断できる指標を持つと、改善が積み上がります。加えて、課題を並べるだけで終わらせず、重大度(影響の大きさ)と頻度(起こりやすさ)で優先順位を付けると、限られた工数でも成果が出やすくなります。改善案が複数ある場合も、プロトタイプで比較し、評価で勝ち筋を選ぶ流れにすると、手戻りが減ります。 

 

6.2.3 体験の「全体像」まで設計・評価の対象に入っていますか 

画面単体の完成度が上がっても、フロー全体のつながりが悪ければ、ユーザーは目的を達成できません。ユーザー体験は、利用前の期待形成(どこから来たか、何を理解しているか)から、利用中の操作(入力・判断・確認)を経て、利用後の安心(完了の確信、次の行動、サポート)まで連続しています。HCDでは、この連続した体験を前提に、どこで不安や摩擦が生まれるかを見に行きます。 

実務で特に見落とされやすいのは、いわゆる「端」の体験です。エラーが起きたときに何をすればよいか分からない、修正が難しい、問い合わせ先が見つからない、料金や権限の条件が後から出て不信感が生まれる、といった部分が離脱を作ります。主要画面を磨いてもKPIが動かないときは、入口(導線)・出口(完了の確信)・例外(エラー復帰)に原因があることが多いです。体験全体の中で「詰まりが成果に直結する場所」を先に選ぶと、改善の効果が出やすくなります。 

 

6.2.4 多様な視点が、設計判断の中に組み込まれていますか 

HCDはデザインの問題であると同時に、開発・運用・サポートを含む総合問題です。デザイナー視点だけで最適化すると、実装制約で崩れたり、運用で回らなかったり、問い合わせが増えたりして、体験の品質が長く保てません。特に業務システムや継続利用のサービスでは、導入後の負荷(教育・サポート・例外対応)がUXに直結します。 

現場で現実的なのは、常に全員を巻き込むことではなく、要所で適切な視点が入る状態を作ることです。たとえば、評価の観察にCSや運用が同席すると、ユーザーの詰まりが問い合わせや現場負荷にどう繋がるかが見え、改善の優先順位が実務的になります。QAが早期に入れば、エラー設計や例外系の抜けが減り、開発が入れば、設計の実装可能性とコスト感が早く固まります。こうした視点が設計判断に入っていると、リリース後の手戻りと運用コストが下がり、体験が安定しやすくなります。 

 

この4点を定期的に確認できているチームは、改善が「思いつき」ではなく「学習の積み上げ」になります。根拠のある理解を持ち、評価で判断を更新し、体験全体を扱い、必要な視点を意思決定に入れる。この流れが崩れなければ、HCDは形式ではなく、現場で効く品質管理として機能し続けます。 

 

7. HCDが形骸化する原因と対策 

HCD(人間中心設計)が現場で形骸化する主な原因は、活動が「実施したかどうか」で完結し、体験品質の改善や意思決定の更新につながっていない点にあります。ISO 9241-210では、HCDを特定の開発手法ではなく、システムのライフサイクル全体に適用される「人間中心の活動」と位置付けています。重要なのは、調査や評価を行うこと自体ではなく、その結果を設計判断に反映し、反復によって改善を続ける運用です。 

また、HCDは「デザイン作業を増やすこと」ではなく、「品質をどう作るか」という考え方そのものです。成果物は手段にすぎず、目的はユーザーが迷いなくタスクを達成でき、その改善がKPIや事業成果に結び付く状態を実現することにあります。以下では、現場で起きやすいHCDの失敗と、すぐに実践できる対策を整理します。 

 

7.1 「リサーチ資料を作った」「テストを1回した」で止まってしまう 

この失敗は、調査やテストが「実施したこと」の報告で終わり、設計判断が更新されない状態です。見た目の改善案や意見は増えるのに、「何を直すと、何がどれだけ良くなるか」が決まらないため、次のスプリントで同じ議論が繰り返されます。結果として、ユーザー視点の学びが蓄積せず、改善が「気分」や「声の大きさ」に引っ張られてしまいます。ここで壊れているのは、活動の回数ではなく「評価→意思決定→改善→再評価」の接続です。 

対策の要点は、評価を「次の設計変更を決める場」に固定し、必ず比較可能な形で回すことです。Nielsen Norman Groupが整理している反復設計の考え方とも相性が良く、特に導入初期は「軽くても繰り返す」ことが効きます。運用としては、次のように評価結果がそのまま改善バックログへ流れ込む形を作ると止まりにくくなります。 

  • 成功条件を先に決めます(例:完了率、タスク時間、エラー率から1〜2個) 

  • テスト目的を絞ります(例:「入力エラーの原因が自己解決できるか」など) 

  • 観察ログを「事実」と「解釈」に分けて残します(後で議論がブレにくくなります) 

  • 課題は重大度(影響)×頻度(起こりやすさ)で優先順位を付けます 

  • 修正後は同じ条件・同じ指標で再確認し、「改善した」と言える形にします 

 

7.2 成果物が増えるほど目的がぼやけ、KPIや要求と結びつかなくなる 

ペルソナやジャーニー、要件メモ、ガイドラインなどは本来とても強力ですが、増えれば増えるほど「何を決めるために作ったのか」が曖昧になりやすいです。目的がぼやけると、更新されない資料が残り、現場の意思決定は結局「いま見えている画面」や「直近の声」に戻ってしまいます。さらに、成果物同士の整合が取れなくなると、資料が増えているのに判断が遅くなり、HCDが「重たい」ものとして敬遠されがちです。 

対策は、成果物を「意思決定の道具」として扱い、活動→成果物→意思決定→指標を一本の線で管理することです。最初から全部を作るのではなく、「このスプリントで何を決めるか」に必要な最小セットから始め、効果が出たものだけを増やします。加えて、成果物には「寿命」を持たせ、更新できないなら捨てる判断を早めに入れると、運用が軽くなります。下の表のように、成果物を「それで何を決めるか」までセットで揃えると、目的がぼやけにくくなります。 

活動 

最小の成果物(例) 

それで決めること 

確認する指標(例) 

コンテキスト理解 

タスク概要+制約メモ 

誰の、どの場面を優先するか 

離脱箇所/詰まり箇所 

要求の明確化 

行動要求(「〜できる」) 

何を成功とするか 

完了率/時間/エラー 

解決案の作成 

低忠実度プロトタイプ 

どの案を試すか 

タスク通過可否/迷い箇所 

評価 

観察ログ+課題リスト 

何を次に直すか 

改善前後の差分 

 

7.3 反復が遅くなり、学習が蓄積しない 

HCDが機能しなくなる背景として、「反復の速度」が落ちる問題もよく起きます。作り込みに時間がかかるほど評価が後ろ倒しになり、いざ問題が見つかっても修正コストが重くなって、再評価まで辿り着けません。すると、学びが「今回の反省」で終わり、次回に活かせる形で残らないため、チームとしての改善力が上がりません。特に新規機能や要件が揺れる領域では、この遅さがそのままリスクになります。 

対策は、反復を「作業の仕方」ではなく「スケジュールの前提」にしてしまうことです。完成度を上げる前に検証できる粒度へ落とし、短い周期で学びを溜める設計にします。具体的には、次のように「小さく試して、小さく学び、次に反映する」を固定すると回りやすくなります。 

  • プロトタイプは「検証できる最低限」に止め、作り込みで評価を遅らせないようにします 

  • 1回のテストで見たい論点を絞り、回数を増やします(対象タスクを狭くするほど速く回せます) 

  • 学びは「次に変える一点」に落とし、改善の焦点を散らしません 

  • 反復ログを残し、「何を試し、何が効き、何を捨てたか」を資産化します 

  • 可能なら案を並行に出し、比較で判断します(議論より早く収束しやすいです) 

 

HCDが崩れるときは、多くの場合「評価で設計が動かない」「成果物が目的化する」「反復が遅く学習が残らない」のどれかに寄っています。逆に言えば、評価結果を意思決定に直結させ、成果物を判断の道具として最小限から扱い、短い周期で学びを積み上げるだけで、HCDは現場で機能しやすくなります。 

大きな改革を一気にやるよりも、重要タスクを1つ選び、改善前後の差が見える形で反復するほうが、組織に定着しやすいです。HCDを「やり方」ではなく「品質を上げる運用」として扱えるようになると、プロダクトが成長しても体験の一貫性が保たれ、手戻りや運用コストも下がっていきます。 

 

おわりに  

HCDを機能させる鍵は、成果物を増やすことでも、手順を形式的に守ることでもありません。重要なのは、ユーザー理解→仮説→設計→評価→学びを一連のループとして回し、得られた結果を次の設計判断に確実に接続していくことです。HCDは「やったこと」を示すための手続きではなく、判断の根拠を更新し続けて改善の確度を上げるための仕組みです。評価の学びが変更点に落ち、同じ指標で改善前後を検証できる状態が整うほど、HCDは再現性のある成果につながります。 

HCDが弱くなるのは、調査やテストが単発で終わり、結果が次の設計変更へ接続されないときです。評価は完成品の検査ではなく、設計を前に進めるための材料です。得られた学びを次の仮説に反映し、同じ条件で再評価して改善の有無を確かめるほど、判断の精度は上がっていきます。成果物も同様に、作ること自体を目的にしないことが重要です。意思決定を進めるための最小限として扱い、要求や評価指標と結びつかないアウトプットを増やしすぎないようにします。 

最初の一歩としては、重要タスクを1つ選び、成功指標を置き、短い周期で「改善前後の差」が見える形で反復するのが確実です。反復の記録が積み上がるほど、コンテキスト理解と要求の精度が上がり、設計判断は速くなり、品質も安定していきます。HCDを「理念」ではなく「継続的に意思決定を更新する仕組み」として組み込めるようになると、体験の一貫性が保たれ、成果につながりやすい状態を作れます。 

LINE Chat